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乾いたスポンジみたいなもんだったから、毎度、片っ端から吸収しまくり。ROCK BOTTOM には店員に間違われるくらい通いつめたし(笑)
―実際前園さんが宅録で音楽を作るようになった経緯ってどんな感じだったんですか?
大学で知り合った石田亮介っていう同級生の存在が大きいかな。ロジャー・ニコルスとか、トラットリア*6 のマイナーなカタログとか、あるいはシュガー・ベイブ、サニーデイ・サービスとか。彼はぼくがまだ持ってなかった、聴いてみたかった音源をたくさん持ってて。
彼と出会った時のことは、前にステレオのブログ(↓)に書いたんだけど、初めて家に行った時に色々聴かせてもらって、その日のうちに山ほどCDを借りて帰ったのを覚えてる。逆に彼が持ってない音源をぼくが貸したり。お互いの音楽の趣味や知識で打ち解けたんだと思う。
宅録は、そんな中で手探りで進めていった感じかな。最初はお互い機材についても当然素人だから「自分たちのレコードから好きな音をサンプリングできるサンプラーってのがあるらしい」「じゃあオレはサンプラー買うからお前はシンセ買えよ」とか、そんなレベル。それが大学1年生の終わりの頃で、ふたりで入った大学のバンドサークルも辞めて、それからは完全に引きこもりの宅録生活(笑)
―最初に作った音源のこと覚えてます?
うん。最初は石田といっしょにレコーディングしてみたんだけど、あまりうまくいかなかったんだよね。それで、すぐにひとりで多重録音するスタイルになった。
で、何曲かできたので、とりあえず<ORANGE BIKE>と名前をつけて一本のテープにまとめて。名前はその頃、<ORANGE BICYCLE>ていうソフト・サイケのバンドが好きだったんだけど、そこから。
で、そのテープをさっき話した ROCK BOTTOM に持って行って佐藤さんに聴かせたら、「イヴェントでライブやんない?」って言われて。持って行ったトラックに合わせてギターかシンセで弾き語りのスタイルで出演してた。
で、当時、トミー・ゲレロのファースト(『ルース・グルーヴズ &バスタード・ブルース』)が大人気だったんだけど、あのスタイルを模した感じで、ギター・ヴォーカルとドラムのデュオ編成でライヴやってる先輩が対バンで出てて。彼らにもアイズレー(・ブラザーズ)とか(山下)達郎さんとか、色々教えて貰ったの。
こっちは乾いたスポンジみたいなもんだったから、イヴェントではDJの選曲も含めて毎度、片っ端から吸収しまくり。ROCK BOTTOM には店員に間違われるくらい通いつめたし(笑)、そういう、人と場所のイイ環境が当時の水戸にあったのはホントに大きかった。
―そういう環境があるか、ないかで、だいぶ違いますよね。
佐藤さんには最初の段階から感想やアドヴァイス*7 をかなり貰ってたね。「BALLOON」なんかは、さっき話したいちばん最初のテープ(『ORANGE BIKE』)の時からやってて、その後『世界』でもひとりでリメイクしたんだけど、『くらしのたより』では、ぼくのアイデアだけではできない、まったく違う感じになった。
コードとコーラス・アレンジだけはほとんどそのままにして、ハウスとかダブの浮遊感とかループ感を参考にしてトラックをまったく違うものに作り替えたんだけど、それは完全に佐藤さん発信のアイデアだった。
その時に音数を制御することの大切さを知ったんだよね。ひとりでやってる時は、頭の中で鳴った音をぜんぶ重ねる勢いでやってたんだけど、佐藤さんは冷静にジャッジしてくれて。「音楽の説得力は音の数に比例しないんだよ」って。「グルーヴは、すき間なんだ」とかね、いちいち響いてたね。
佐藤さんがいなかったら、『くらしのたより』へ至るようなぼくの音楽性の変化とか成長はなかったかもしれない。
あとね、SOUND GALLERYには佐藤さんの他にも、小林勝哉さんとジミー益子さんというふたりのDJがいて、おふたりからの影響も大きかったんだよね。
小林さんも益子さんも、佐藤さんよりさらに年上だったんだけど、小林さんにはラウンジとかブラジル物のレア盤をホントにたくさん聴かせてもらって、おかげでレア盤を買うことに対して躊躇しなくなっちゃったし(笑)、益子さんは元々<THE 20 HITS>ていう、ネオGSの文脈で語り継がれてるバンドのベーシストで、ぼくが高校3年生の時(1996年)に出たピチカート・ファイヴの『フリーダムのピチカート・ファイヴ』と『宇宙組曲』で絵を描いてたイラストレーター で、昭和40年代の和モノとか60年代のサーフ・ガレージ系のレコードの超絶なコレクターでもあってという、これまたとんでもない先輩で。後々、ぼくが和モノのコンピを監修したり、和モノのレコ屋を始めたりしたきっかけのひとりであることは間違いないし、『くらしのたより』以降、2003年までにリリースしたぼくの作品ではアートワーク*8 も手がけていただいてて。
受験で受かったからという理由で移り住んだ水戸の街で、そんな先輩たちと出逢って至近距離でいられたのは、お金で買えない経験だったよね。