●前園直樹インタヴュー/聞き手:山岡弘明
前園直樹『くらしのたより』リマスター配信記念

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本当に小さな<サークル>みたいなシーンだったけど、水戸が恵まれた環境だったことには変わりない。

2000年。撮影:石田亮介

今から約20年前、まだ大学生だった前園青年が自宅で人知れず作り上げた音楽。この度、その作品が配信でリリースされるのを機に、なにかweb上で特集を組もう、という話になり、前園さんに当時の制作や生活の話を中心としたインタヴューを試みました。
ぼくが企画したイヴェントに<前園直樹(冗談伯爵)>名義で出演して貰って以来、広島のパーティやクラブイヴェント等で度々一緒に遊んできた前園さんにインタヴューするのは今回がもちろん初めて。そして前園青年が作ったその音源を聴くのも実は今回が初めてでした。
2020年に改めて/初めて届いた『くらしのたより』を皆さんはどう聴いたでしょう。ひとりの青年の音楽への愛と初期衝動のエネルギーに溢れたこの作品の魅力を知る一助になれば幸いです。
(山岡弘明)

―前園さん自身はいま振り返った時にこのアルバムをどういう風に見てますか?

うーん…。当時のプロモーターや音楽ライターは紹介しにくかったんじゃないかな。『くらしのたより』の1年前に自主制作した『ORANGE BIKEの世界*1』の実験的な要素に、ポップスの要素を追加して、理由は後で話すけど<あえて整えなかった>作品だからね。ほとんどの人は不思議な感触だったかも。

ORANGE BIKE / ORANGE BIKEの世界
ORANGE BIKE / ORANGE BIKE の世界

*1: 2000年9月発売。以下、この記事では『世界』と表記

―確かに、一聴した時の<なにこれ?>みたいな(周りの)反応は想像できます。

『世界』から『くらしのたより』までの間って1年しかないんだけど……でも若い時って、1年もあれば知識量も好みも変わるよね。自分の中で起きた変化をそのまま形にした結果が、このアルバムなのかもね。
高校卒業後は上京して、音楽の専門学校にでも行こうかと思ってたんだけど、両親に大反対されて。それで仕方なく大学受験をしたら、水戸の大学に合格して。後は入学式の直後から、大学サボってレコード漬けの毎日(笑)、いまだと簡単に聴けるアルバムでもCDですら再発されてなくて、オリジナルのアナログ盤を探さなきゃ、って場合が多々あった。サブスクはもちろん、Youtubeもまだ*2 だったし。だからバイトしてそのお金でレコード屋に行って、っていうのを繰り返してた。

*2 Youtube開設は2005年

―ああ、でもそれは何となく分かります。圧倒的なリスナーベースの人が作った音楽だなあと思いましたもん。様々な要素を感じますし。

周りの大人たちが結構面白がってくれたんだよね。基本、好きなようにやらせてくれたし。
当時はほぼ全て宅録だったんだけど、水戸の8畳間のアパートに、東京からMIDIのスタッフが見に来たりもして。
その時も、ダメ出しはなかった。「オマエ天才だな」っておだてられることはあったけどね。まあ……若いし調子に乗るよね(笑)

―当時のbounceのインタヴューにも載ってましたね。スタッフと泊まり込みでレコーディングしたっていう。

たぶん、どんな感じで作ってるのか見ておきたかったんだと思う。
さっき名前が出てきた『世界』を聴いて電話をかけてきてくれたMIDIの久保田さん*3 と初めて会った時、「『世界』の実験的な曲もオレはイイと思ってるんだけど、キャッチーな曲も欲しい」て言われて。
ちょうど心境の変化があって、ぼくもまさにキャッチー路線で行きたかったのね。

*3 久保田健司氏。当時A&Rを担当

―それはどういう変化だったんですか?

まずは単純に、実験的なレコーディングをすることに飽きてしまった(笑)。で、それもあったんだけど、新旧のレコードを聴きまくるうちに、どんどんポップスの奥深さにはまってしまっていったのが大きかったね。時代ごとに流行した音楽の<キャッチーさ>とか<ポップさ>の魅力にズブズブ、っと……。
それで、一気に<キャッチー>方面へ意識を傾けた全部新曲のアルバムを作るつもりだったんだけど、久保田さんは『世界』も凄く買ってくれてて、実験とキャッチーのミックスでいこう、ということになった。
最終的に、『くらしのたより』は『世界』からの5曲と未発表の5曲で構成して完成したんだけど、水戸まで見に来た、っていうのは、実験とキャッチーのバランスが果たしてどうなるかが気になってた部分もあるのかなあって。

―当時(2000年代前後)は宅録ってポピュラリティーあったんですか?
というのも、当時中学生だった自分の印象なんですけど、その頃ってバンドの音楽ばかりにスポットライトが当たってて、こういった宅録モノがさほど取り上げられてなかったように思うんですけど。どうなんでしょう?

あったよ。宅録、結構流行ってたんじゃないかな。TASCAMとかFOSTEXとか、そういうメーカーから4トラックのテープレコーダーがかなり安く出回ってたし、時代としてはちょうど、トラック数が増えて記録媒体がテープからMDに変わって、さらにこんどはハードディスクレコーダーの民生機が普及し始めた頃で。まだ高かったけど、ぼくは『世界』からROLANDの<VS-880EX>ていう8トラックのハードディスクレコーダーをメインに使うようになってた。

2000年。『ORANGE BIKEの世界』制作中
中央テーブルの上の機材がHDR<VS-880EX>
撮影:石田亮介

それはそうと、パーティーとかで配ったりするのに、自分の好きな音源でミックスCD作るじゃん? あの感じで、自分たちでレコーディングしたオリジナルの曲を集めたオムニバスのカセット作って、配ったりしてたよ。

―へえ。それすごいですね。

週末、水戸から常磐線の各駅に乗って東京にレコードとか古本を買いによく行ってたんだけど、渋谷のゼスト*4 の入り口とかに色んなイヴェントのフライヤーが置いてあって、それに<デモテープ募集>て書いてたりしたのね。で、書いてる住所に音源を送ったら、その人たちがやってるイヴェントで配るためのオムニバスに収録してもらったこともあったね。

*4 渋谷・宇田川町にあった輸入レコード店。80年代に開店した当初はノイズ/アヴァンギャルド系の店として始まったが、やがてギターポップ/ネオアコ系を中心とした品揃えに変わっていき、いわゆる<渋谷系ブーム>の頃にはその聖地として全国から若者たちが集った。前園曰く、初めて店を訪れたのは1997年で、渋谷系のブームはピークを過ぎていた頃だったが、それでも店内は女性客であふれ衝撃だったという

―渋谷系といえば流行ったアーティストばかり振り返られるけど、リスナー側での、そういった盛り上がりがあったんですね。

コスプレ、っていうと語弊があるかもしれないけど。まあ、何でも真似ごとから始まるみたいな。フリッパーズ・ギターのおふたりとか、ブリッジのメンバーだったカジヒデキさんとか、彼らのインタヴューを読んで、レコード好きが集まってバンド組んで、自分たちでミニコミ作ったりオムニバス作って、ていうDIYな感じに結構みんな憧れてたんじゃないかな。

―なるほど。

あと、宅録やってた連中はジャンルとかあまり関係なくて、<宅録やってる>ってことで繋がってたからね。<アマチュア無線やってる>みたいな……アマチュア無線、いまやらないか(笑)。とにかく、お互いの機材を貸し借りして制作に協力し合ったりしてたんだよね。
水戸ではそんな感じがあったし、軽く首を突っ込んでた東京にも当然シーンはあったけど……水戸以外の地方の街にもあったんじゃない?

―水戸にそういうシーンがあったんですね。

本当に小さな<サークル>みたいなシーンだったけどね。ぼくにとっては恵まれた環境だったことには変わりない。
『くらしのたより』の制作を手伝ってくれた佐藤(勝紀)さんが<ROCK BOTTOM>っていう水戸にあったレコード屋で店長をやってて。彼は10歳上でDJもやってたんだけど、<SOUND GALLERY>ていう、UKのレア・グルーヴの名作コンピから名前をとったレギュラー・パーティーを主宰して小西康陽さんとか常盤響さんをゲストで呼んだりしてて。
普段はお客よりDJの方が多い時もあるくらいに細々とやってる感じなんだけど、ビッグ・ネームを呼ぶといきなり100とか来るっていう(笑)。如実かよ! って(笑)。

―(笑)まあ、その辺はいまと変わらないですかね。

とにかく、まずは ROCK BOTTOM に通いまくって、佐藤さんと仲良くなって自分の音源のカセットを渡して、やがて彼のパーティーでライヴをやれるようになった。

―ということは、当時から小西さんや常盤さんと共演してたんですか?

とんでもない。ぼくなんか超若手だから、通常回にしか出られない。大きいゲストが来たとき*5 は、ただの踊り狂ってるガキ(笑)。97年に小西さんがゲスト出演した回ではご本人と初めてお会いして、著書(『これは恋ではない』)にサインをいただいてふたりで写真も撮ってもらって……もうホントにただの客で(笑)
そんでさ、佐藤さんイイなあ、スゲエなあ、いつかオレも共演してえ、とか思いながら、また部屋に引きこもってレコーディングという修行の日々ですよ(笑)

*5 <SOUND GALLERY>1997年9月25日。特別ゲストDJ:小西康陽